古文の解き方や勉強法、参考書や問題集の紹介(第13回)「エピソードとゴロで覚える頻出『古文文学史』一覧」
みなさんはじめまして。
七隈国英塾の杉久保英司と申します。当ホームページをご覧いただきありがとうございます。
今回は(第13回)「エピソードとゴロで覚える古文文学史」を解説していきます。
ゴロ覚えには2つの系統があります。
①「音」で覚えるゴロ合わせ(多数派)
②「エピソード(ものがたり)」で覚えるゴロ合わせ(少数派)
私は②「エピソード」で暗記するのが得意で、①の「音」で覚えるゴロ合わせができません。「ものがたり」の具体的な「画像」や「動き」が出てこないと覚えられないのです。もし、私と同じ脳の構造をお持ちの方には、最適かもしれません。今までのゴロ合わせで覚えられない方は、ぜひ試しにやって見て下さい。
①「八代集」『コキンと骨を折ったら5000円で修理した。ご祝儀は金曜しかせん!+新古今』
②「随筆」『私を枕の方へ連れてって!』
③「日記」『土佐のカゲロウが和泉へ紫のさらしを巻いて讃岐うどんを食べながら飛んで行く』
④「伝奇物語」『竹取の翁がうつほに落ちた』
⑤「歌物語」『伊勢神宮から大和を通って帰る平中納言』
⑥「物語(完成版)」『源氏が夜の浜松の堤防でうなぎと狭衣をとりかえた』
⑦「歴史物語」『この映画、大根水増し過ぎやろ!』
⑧「説話集」『日本の宝コンニャクに発心した外国人が、京都の宇治で10個の沙石をココンとたたいた!』
⑨「軍記物」『事件の当事者がみんな亡くなったり、時の政権が転覆した後に作られる。要するに、「しがらみ」が無くなった70~100年後に作られる。「それは違うぞ!」と文句を言われたり、「反逆者を美化したな!」と処刑されたりしないから』
⓾「紀行文」『十六夜の月がきれいな夜に、京都から東の関所を抜けて海の道を鎌倉に向けて旅をする』
参考「最強の古文」Z会出版 小泉貴 先生
★現代文、古文、英語の勉強法をまとめた記事はこちら★
国語、英語の読み方、解き方、勉強法や参考書、問題集の紹介
前回:まだ作ってません。
次回:未定。
1.「八代集」(勅撰和歌集)
『コキンと骨を折ったら5000円で修理した。ご祝儀は金曜しかせん!+新古今』
コキンと骨を折ったら5000円で修理した。ご祝儀は金曜しかせん!+新古今
「コキン」古今和歌集
「5000円」後撰集(ごせんしゅう)
「修理」拾遺集(しゅういしゅう)
「ご祝儀」後拾遺集
「金曜」金葉集
「しか」詞花集(しかしゅう)
「せん」千載集(せんざいしゅう)
「新古今」新古今和歌集
「コキン」古今和歌集。紀貫之(きのつらゆき)の「仮名序」(ひらがなの序文)、紀友則(きのとものり)の「真名序」(漢字序文)は必ず覚えよう。六歌仙「僧正遍照(そうじょうへんじょう)、在原業平(ありわらのなりひら)、小野小町(おののこまち)、大友黒主(おおとものくろぬし)、喜撰法師(きせんほうし)、文屋康秀(ふんやのやすひで)」は、「仮名序」で紀貫之が「この人達すごい!」とほめた平安前期の人たち。「変なり小町の黒きフン」で覚えよう。ちなみに、紀貫之は「土佐日記」(ひらがなで書かれた最初の日記)を書いており、国風文化の中核「ひらがな」の地位向上にものすごく貢献している。
「5000」後撰集(ごせんしゅう)。「撰」が「てへん」であることに注意。撰者の「梨壺の5人」の中には「清少納言」の父「清原元輔」がいる。
「修理」拾遺集(しゅういしゅう)「古今和歌集」「後選集」「拾遺集」まとめて「三代集」と言われる。古い秀歌を拾う(ひろう)目的は三代集でほぼ終了。国風文化絶頂期の1006年成立なので、当代歌人である古文の有名人もいっぱい選ばれている。
「ご祝儀」後拾遺集。院政を始めた白河天皇の勅撰。評判が悪かったらしい。
「金曜」金葉集。白河上皇が2回目の命令。「源俊頼」(みなもとのとしより)1人が撰者。歌論「俊頼髄脳」(としよりずいのう)の出題頻度はものすごく高い。
「しか」詞花集(しかしゅう)「保元の乱」(1156)で負けた崇徳上皇の命令。「詞花」の漢字に注意。
「せん」千載集(せんざいしゅう)「保元の乱」で勝った後白河上皇の命令。「藤原俊成」(ふじわらのとしなり)一人が撰者。芸能の「幽玄」(ゆうげん)の概念を提唱した。「藤原俊成」は「藤原定家」(ふじわらのていか)のお父さん。
「新古今」新古今和歌集。鎌倉時代「承久の乱」で負けた後鳥羽上皇の命令。「万葉に帰れ!」が合言葉で、万葉集からの選がものすごく多いのが大きな特徴。「万葉集」(まんようしゅう)は奈良時代末期に大伴家持(おおとものやかもち)が編纂したとされる古い和歌集(勅撰=天皇の命令ではない)。漢字と万葉仮名(漢字の音読みを日本語に当てはめたもの「夜露死苦」→「よろしく」)で書かれた和歌集で、「自分の気持ちをストレートに歌にする」のが特徴。元号「令和」の元となったことは最近ニュースになった。
撰者は藤原定家(ふじわらのていか)を含む6人。藤原定家は「万葉調」と「古今調」を組み合わせた「新古今調」を代表した歌人。小倉百人一首を作ったことでも有名。また、歌論「近代秀歌」「毎月抄(まいげつしょう)」、日記「明月記(めいげつき)」は選択問題の選択肢によく入る。年代とジャンルをちゃんと覚えよう。例えば、「近代秀歌」=「明治・大正時代」とやりがち。また、「毎月抄」と「明月記」が両方選択肢に入ったりとかする。「明月記」は「記」があるから「日記だね」と覚えたり、いろいろ工夫して覚えよう。
鴨長明(かものちょうめい)も、新古今和歌集の編纂をする和歌所に勤める11人であったが、途中で色々あって世を捨てた。随筆「方丈記」、説話「発心集」(ほっしんしゅう)、歌論「無名抄」(むみょうしょう)と著作が多い。ちなみに、「無名抄」は同じ時代の物語評論書である「無名草子」と混同しがち。「無名草子」は藤原俊成(としなり)の女(むすめ)(藤原定家の妹)が作ったとされる。「抄」とは「写すことや注釈」のことで、「草子」とは「物語」の意味である。
補足「万葉調」「古今調」「新古今調」の違い(個人的感想です)
「万葉調」(まんようちょう)
万葉集(780年)の特徴。自分の気持ちを飾らずにストレートにする。あと、枕詞(まくらことば)が多い。「あしひきの」→「山」、「ひさかたの」→「光」などが枕詞。江戸時代の国学の大成者「本居宣長」(もとおりのりなが)は、当時の日本人の気持ちを「真心(まごころ)」と定義した。万葉調を一言で表すなら「心」の和歌。
「古今調」
古今和歌集(905年)から続いた特徴。掛詞(かけことば)や縁語(えんご)などの技法が多用される。掛詞は一つの言葉で2つの意味を持たせる。「生野」と「行く野」や「文」と「踏み(ふみ)」。縁語は意味が近い言葉を並べる。「道」と「踏み」・「橋」。
大江山 いく野の道も 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立 (小式部内侍)
古今調を一言で表すなら「技」の和歌。
「新古今調」
新古今和歌集(1210年)から続いた特徴。「万葉に帰れ!」が合言葉。古今調があまりにも「技巧」に走り過ぎてしまったため、「万葉集」の「心」の部分を取り入れた。新古今調を一言で表すなら「技」+「心」の和歌。
本歌取りも多く、歌から風景が思い出される「写実主義」的な側面や「叙情的な余韻(事後ののせつなさ)」や「幽玄(表面的なものだけではなく、なんとなく歌の奥から感じられるもの)」が特徴。本歌取りとは古くて有名な和歌や源氏物語などで出てくる和歌などの一部をもじって歌を作ること。藤原定家が方法論を確立し積極的に推奨したため、その後流行した。
ちなみに、室町・江戸期は復古主義的な技巧の「古今調」が流行ったが、明治になって「正岡子規」が「和歌・俳句は「写実主義」でなければならない」という運動をしたため、再び新古今調が流行した経緯がある。
2.「随筆」
『私を枕の方へ連れてって!』
私を枕の方に連れてって!
「枕」枕草子(まくらのそうし)清少納言(せいしょうなごん)平安中期
「方」方丈記(ほうじょうき)鴨長明(かものちょうめい)鎌倉前期
「連れ」徒然草(つれずれぐさ)吉田兼好(よしだけんこう)鎌倉末期・室町初期
随筆(ずいひつ)とは
筆者が「自分の考えていること」や「事件に関する感想」を書きつづる文学のジャンル。「エッセイ」。「頭がいい人」で「感性が豊かな人」しか良い随筆が書けない。よって、数が少なく「三大随筆」だけ覚えておけば大丈夫。日記的な側面もあるが、日記と異なるのは「物事に対する踏み込んだ深い洞察」「自分の価値観や美意識を具体的な例を挙げて表現」(随想)している点。
「枕」枕草子。作者は「清少納言」。日本初の随筆で随筆の形を作った。一条天皇の中宮「定子」に使えた女房(家庭教師)。中宮定子に仕えていたころの日記的な記述、自分の美意識や感性を表した随想部分からなる。父は後撰集の撰者「梨壺の5人」の一人「清原元輔」。だから「清少納言」と呼ばれる。
「方」方丈記。作者は「鴨長明」(かものちょうめい)。説話集「発心集」(ほっしんしゅう)や歌論「無名抄」など著作が多いので注意。神官出身で歌詠みとして名を馳せたが、色々と嫌なことがあって出家してしまう。世捨て人的な「仏教的無常観」に立った随想をする。作者が生きた時代の災害や戦争(火災・台風・疫病・地震・源平合戦)の日記的記述もよく出題される。テーマが重くて暗い印象。
「連れ」徒然草(つれずれぐさ)(つれずれ=暇、草=物語)。作者は「吉田兼好」(よしだけんこう)。対比構造や例示がしっかりしている論理的な文章が特徴的。鴨長明のようなガチガチの厭世人(えんせいびと、世の中を嫌う人)ではなく、隠者生活を積極的にエンジョイしていくスタイルで軽妙な感じ。また、世の中に対しても関心が強く、世間一般の日常的なことに対する随想も多い。
3.「日記」
『土佐のカゲロウが和泉へ紫のさらしを巻いて讃岐うどんを食べながら飛んで行く』
土佐のカゲロウが和泉へ紫のさらしを巻いて、讃岐うどんを食べながら飛んでいく
「土佐」土佐日記(とさにっき)。紀貫之(きのつらゆき)。「土佐」は高知県の旧国名。
「カゲロウ」蜻蛉日記(かげろうにっき)。藤原道綱の女(母)
「和泉」和泉式部日記(いずみしきぶにっき)。和泉式部。「和泉」は大阪北部の旧国名。
「紫」紫式部日記。紫式部。
「さらし」更級日記(さらしなにっき)。菅原孝標(すがわらのたかすえ)の女(娘)
「讃岐うどん」讃岐典侍日記(さぬきのすけにっき)。藤原長子(ふじわらのながこ)
「土佐」土佐日記。作者は紀貫之(きのつらゆき 男性)で、日本初の「ひらがな」で書かれた日記(漢字の日記はこれ以前にあるが出題されない)。国司としての赴任先である土佐(とさ、今の高知県)から京都に帰るところから始まる。土佐で亡くなった娘を思う何とも言えない気持ちなどを、漢字で書くのは不向き。そこで「ひらがな」で日記を書いた。紀貫之は最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」の筆頭撰者で、「仮名序」(ひらがなの序文)を書いたことでも有名。国風文化の代表である「ひらがな」の地位向上に紀貫之はものすごく貢献しており、その後の女性による「ひらがな文学」の道を作ることになった。
「カゲロウ」蜻蛉日記(かげろうにっき)。作者は藤原道綱の女(母)。夫は藤原兼家(ふじわらのかねいえ。藤原道長の父)で、夫との喧嘩や、藤原兼家の正妻とのバトル、年老いた後の兼家の薄情さに対する愚痴、息子道綱への愛などがつづられる。蜻蛉日記の「蜻蛉」とは「はかない生き物」の代表。成虫になったときには「口がふさがって」おり食べ物を食べることができない。生殖するためだけに短い成虫期間を過ごす悲しい生き物。作者は自分の人生をこの「蜻蛉」に例えたのである。
「和泉」和泉式部日記(いずみしきぶにっき)。作者は和泉式部。当代一線級の歌人で女性ではNo1の歌人。勅撰和歌集に和泉式部の歌は多く載っている。中宮「彰子」(しょうし、藤原道長の娘)の女房(和歌の家庭教師)となる。娘は小式部内侍(こしきぶのないし)。2人の親王(天皇の息子)との恋愛遍歴、和歌の天才である娘が若くして亡くなった時の悲しみ、などがつづられている。
「紫」紫式部日記。作者は「源氏物語」で有名な紫式部。「和泉式部」や「赤添衛門(あかぞええもん)」と同じく中宮「彰子」(しょうし、藤原道長の娘)の女房(家庭教師)となる。「土佐日記」「蜻蛉日記」「和泉式部日記」は他人や後世の人に見せることを前提として書かれおり、文学性の高い日記である。しかし、「紫式部日記」は割とガチな日記で、宮仕えの様子やその苦労、敵対勢力「清少納言」へのものすごい愚痴、同僚である「和泉式部」への愚痴、同僚である栄花物語の作者「赤添衛門(あかぞええもん)」への尊敬、上司の「藤原道長」への愚痴、などが手紙を添えて書かれている。当時のことがとてもよく分かり、「源氏物語」研究の参考にもなるため、歴史的な資料性の高い日記である。書いている人が紫式部なので難問としてよく出題されている。
「さらし」更級日記(更級日記)。作者は菅原孝標(すがわらたかすえ)の女(娘)。菅原孝標の嫁の姉は「蜻蛉日記」の藤原道綱の母。よって、「更級日記」の作者は「蜻蛉日記」の作者の姪(めい)に当たる。父の赴任先の上総(かずさ 今の千葉県)から京に帰る子供時代から始まる。源氏物語をはじめとする都の文化に憧れる夢見る少女であったが、成人して結婚して夫と死別するという風に、現実に直面するようになり、最後は少女時代と同様に仏様に極楽浄土を願うところで日記が終わる。
「讃岐うどん」讃岐典侍日記(さぬきのすけにっき)。作者は藤原長子(ふじわらながこ)。「讃岐(さぬき)」は旧国名で今の香川県。典侍(「ないしのすけ」、あるいは「すけ」。読み方は必ず覚えよう)は天皇に直接使える女官のトップ。律令にも規定のある正式な官位なので、公式記録にも名前が残る(だから「藤原長子」と本名が分かっている)。
藤原長子は白河上皇時代の「堀川天皇」に仕えており、幼いころから最も近い場所に居続けた人である。堀川天皇が29歳で亡くなった時、その1か月前と崩御後数か月の作者の内面的様子やその変化を日記に残している。緊迫感とリアリティーのある日記。
ちなみに曾おじいさんは藤原道綱(みちつな)。よって、藤原長子は「蜻蛉日記」の作者「藤原道綱の女(はは)」の血を引いている。
4.「伝奇物語」
『竹取の翁がうつほに落ちた』
竹取の翁がうつほに落ちた
「竹取」竹取物語。900年頃(平安初期)作者不詳。
「うつほ」宇津保物語(うつほものがたり)。980年頃(平安中期)作者不詳。
「落ちた」落窪物語(おちくぼものがたり)。990年頃(平安中期)作者不詳。
伝奇物語とは
いわゆる「ファンタジー」(空想物語)。竹取物語以外の主人公は苦労した後に幸せになる。サクセスストーリー。
「竹取の翁」竹取物語。日本初の物語。ちなみに「翁」(おきな、おじいさん)で、「媼」(おうな、おばあさん)。読み方と意味は覚えよう。
「うつほ」宇津保物語(うつほものがたり)。「うつほ」とは「木の大きな空洞」のこと。色々あって「うつほ」で主人公「藤原忠仲(ただなか)」は母に育てられる。祖父は遣唐使帰りでペルシャ風の琴(きん、弦楽器)の達人。忠仲は母から秘伝の「琴」を伝授される。高貴な美人に求婚したが、ライバルが4人いた(竹取物語とは逆視点)。準決勝では「琴」の腕前で何とか勝つことができたが、決勝戦で皇太子に負けてしまう。しかし、色々あって「琴」の腕前で幸せになっていく話。「祖父→母→主人公→娘」と琴の伝承によって物語が進行していく。
「落ちた」落窪物語(おちくぼものがたり)。「落窪」とは「みすぼらしい部屋」で「主人公の名前」。主人公「落窪の君(女性)」は、継母(ままはは、本当のお母さんではない)が決めた結婚を断ったため「落窪」(みすぼらしい部屋)に押し込められる。継母の腹いせでブサイクな貧乏人と結婚させられそうになるが、高貴でイケメンの男子が助け出してくれる。ついでに継母にも復讐して、落窪の君はイケメンと幸せに暮らしました。いわゆる「シンデレラストーリー」。
5.「歌物語」
『伊勢神宮から大和を通って帰る平中納言』
伊勢神宮から大和を通って帰る平中納言
「伊勢神宮」伊勢物語(いせものがたり)。900年頃(平安初期)作者不詳。
「大和」大和物語(やまとものがたり)。950年頃(平安中期)作者不詳。
「平中納言」平中物語(へいちゅうものがたり)。?年頃(平安初期~中期)作者不詳。
歌物語とは
和歌には「恋」、「全国の素晴らしい風景(歌枕、うたまくら)」、「別れや悲しみや寂しさ」、「季節」、「日常的なこと」などを歌ったものがある。歌物語はこれらの和歌から着想し、歌が詠まれた逸話を一つにまとめて物語にしたもの。受験的には、各物語の最後の方には「和歌」があることに注意しよう。その和歌が理解できているかどうかの設問が出題される(要するに、物語をちゃんと理解したかを聞いてくる)。
「伊勢神宮」伊勢物語(いせものがたり)作者不詳。日本初の歌物語。六歌仙の一人であり日本史上ダントツNo.1の歌詠み「在原業平(ありわらのなりひら)」の歌から作られた物語。実際の「在原業平」は関東へ行った歴史的事実はないが、「伊勢物語」で「ある男」は関東(三関より東、三関は「不破の関」「鈴鹿の関」「逢坂の関(おうさかのせき)」)へ旅行をしており、東海、関東地方の歌枕用いた和歌にちなんだ物語がつづられている。要するに、在原業平が見たこともない「歌枕を読んだ和歌」を、後世の人が逸話を作って一連の物語にしたのである。
伊勢物語で重要な概念は「雅(みやび)、対義語は鄙(ひな)」。「雅」とは都会じみていて洗練された感じの事。多くの恋の歌に関するエピソードでは、「ある男」は「失恋したり」「死別したり」「結婚したり」している。実際の「在原業平」も「色好み(趣味が恋愛)」な男として有名。
「大和」大和物語(やまとものがたり)作者不詳。伊勢物語と異なり、主人公は統一されていない。「一話完結型」のオムニバス方式。前半の歌に由来する物語がまとめられた「歌物語」的なパートと、後半の物語自体に重心が置かれた「説話」的なパートからなる。有名な「姥捨て山(うばすてやま)」は大和物語でも描かれている。
「平中納言」平中物語(へいちゅうものがたり)作者不詳。主人公の「平中」は「平貞文(たいらのさだふみ)」とされる。「平貞文」は歌読みの名人で、「古今和歌集」に当代人として多くの和歌が残っている。また「色好み」として有名で、「在原業平」とセットで「色好みと言えば在中・平中」と後世の人から呼ばれている。
6.「物語(完成版)」
『源氏が夜の浜松の堤防でうなぎと狭衣をとりかえた』
源氏が夜の浜松の堤防でうなぎと狭衣をとりかえた
「源氏が」源氏物語。1010年成立。紫式部。
「夜の」夜半の目覚(よるのめざめ)。11世後半。作者不詳。
「浜松の」浜松中納言物語(はまちゅうなごんものがたり)。11世紀後半。作者不詳。
「堤防で」堤中納言物語(つつみちゅうなごんものがたり)。11世紀後半。作者不詳。
「狭衣」狭衣物語(さごろもものがたり)。11世紀後半。作者不詳。
「とりかえた」とりかえばや物語。12世紀後半。作者不詳。
作り物語(完成版)とは
「伝奇物語」+「歌物語」=「作り物語」と覚えよう。 「伝奇物語」的な「ファンタジー部分」と、「歌物語」的な「物語末に歌が添えられる要素」を組み合わせて「作り物語」として完成した。
「源氏物語」の完成度が圧倒的に高く、「とりかえばや物語」以外は全部「源氏物語」を手本として作られた。物語評論の書である「無名草子」(作者は藤原俊成の女(娘) 藤原定家の妹)では、「『狭衣物語』が源氏物語に続いて良い出来である」としている。
作り物語で重要な概念は「もののあはれ」である。「もののあはれ」とは「何とも言えない感慨深さ」のこと。例えば、ものすごくきれいな夕陽を「何も言わずにずっと見ている」時のような気持ち。
7.「歴史物語」
『この映画、大根水増し過ぎやろ!』
この映画、大根水増し過ぎやろ!
「映画」栄花物語。1020年頃。赤添衛門(あかぞええもん)中宮彰子の女房の作。
「大」大鏡(おおかがみ)。1020年頃。作者不詳。平安初期の藤原冬嗣(ふゆつぐ)~藤原道長まで。
「根」今鏡(いまかがみ)。平安末期。作者不詳。道長死後~平家の台頭まで。
「水」水鏡。(みずかがみ)。鎌倉期。作者不詳。神武天皇~平安初期まで。
「増し」増鏡(ますかがみ)。南北朝期。作者不詳。後醍醐天皇の誕生から鎌倉幕府を倒すまで。
歴史物語とは
栄花物語+四鏡(しきょう)「大鏡、今鏡、水鏡、増鏡」。
「栄花物語」は女性の手によるもので、女性的な優しい配慮がされている。「四鏡」は男性が書いているので「批判的精神」に富む。例えば、「栄花物語」と「大鏡」では「藤原道長」に対する評価が正反対である。「栄花物語」で道長は肯定的にとらえているに対し、「大鏡」では批判的にとらえられている。「栄花物語」の作者「赤添衛門」は中宮「彰子」の女房であり、雇い主は「藤原道長」なので、ひどいことを書くことができないのは当然である。
歴史物語の傑作は「大鏡」である。「今鏡」が次点で、その他はそれほどでもないらしい。「大鏡」「今鏡」「水鏡」は紀伝体で書かれている。紀伝体とは「天皇本紀」と「藤原氏やそのほかの人物の列伝」とを組み合わせて書く歴史叙述のスタイル。唐代の司馬遷(しばせん)が「史記」をまとめるため開発した。対義語は編年体で五経の「春秋」から続くスタイル。北宋の時代、司馬光(しばこう)の「資治通鑑 しじつがん」が有名。
8.「説話集」
『日本の宝コンニャクに発心した外国人が、京都の宇治で10個の沙石をココンとたたいた!』
日本の宝コンニャクに発心した外国人が、京都の宇治で10個の沙石をココンとたたいた!
「日本」日本霊異紀(にほんれいいき)。平安前期。景戒。最古の仏教説話集。
「宝」宝物集(ほうぶつしゅう)。平安後期。平康頼(たいらのやすより)。仏教説話。
「コンニャク」今昔物語(こんじゃくもんがたり)。平安後期。作者不詳。。世俗説話。
「発心」発心集(ほっしんしゅう)。鎌倉期。鴨長明(かものちょうめい)。仏教説話。
「宇治」宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)。鎌倉期。作者不詳。世俗説話。
「10個」十訓抄(じっきんしょう じっくんしょう)。鎌倉期。作者不詳。世俗説話。
「沙石」沙石集(しゃせきしゅう)。鎌倉期。無住(むじゅう)。仏教説話。
「ココン」古今著聞集(ここんちょもんじゅう)。鎌倉期。橘成季(たちばなのなりすえ)世俗説話。
説話集とは
古くから庶民に伝承された民話である「説話」を集めたもの。「作り物語よりも実話」、「宮廷美意識より庶民感覚」といったものが好まれるように時代が変化したと言える。「今昔物語」「宇治拾遺物語」「古今著聞集」は三大説話集と呼ばれる。
説話集は「仏教説話」と「世俗説話」に分かれる。「仏教説話」は「仏門に入るきっかけの話(発心 ほっしん)」、「仏教の修行をして幸せになった話(功徳 くどく)」、「極楽の素晴らしい話(往生 おうじょう)」などの説話からなり、仏教の経典が元ネタであることが多い。「世俗説話」はそのままの意味で、庶民の間で伝承された説話である。
年代は「平安」か「鎌倉」が分かれば大丈夫。「今昔物語」までが「平安期」で、「発心集」からが「鎌倉期」になる。作者は「発心集」の鴨長明(かものちょうめい)と「沙石集」の無住(むじゅう)だけ覚えよう。鴨長明は随筆「方丈記」と歌論「無名抄」のその他の著作があり、無住には仏教説話「妻鏡(つまかがみ)」と「雑談集(ぞうたんしゅう)」もあるので、出題されやすい(出題者的には問題を作りやすいとも言える)。
また、歌論「無名抄」と物語評論「無明草子(むみょうぞうし)」藤原俊成(としなり)の娘(藤原定家の妹)は、同じ選択肢に入れられがちなので、混同しないように注意しよう。
9.「軍記物」
事件の当事者がみんな亡くなったり、時の政権が転覆した70~100年後に作られる。
「将門記」(しょうもんき)1000年~。作者不詳。主人公は「平将門(たいらのまさかど)」承平・天慶の乱(935~942)の話。平将門と紀貫之(きのつらゆき)は同年代。
「陸奥話記」(むつわき)~1100年。作者不詳。主人公は「源頼義(よりよし)・源義家(よしいえ)」前九年の役(1051~1062)。源義家は源氏の英雄。この人の血を受け継いだ人しか征夷大将軍になれないとされた。白河上皇とほぼ同年代。割と残酷的な描写が多いのが特徴。ここまでが前期軍記物。
「保元物語」(ほうげんものがたり)~1220年。作者不詳。崇徳上皇●と後白河天皇○の戦い「保元の乱」(1156)。上皇と天皇のどっちが勝っても必ず家が残るように、源氏と平氏はそれぞれ一族郎党を半分にして戦った。戦いの前、戦いの後の悲劇などが描かれる。和漢混交文で書かれている。
「平治物語」(へいじものがたり)~1220年。作者不詳。平清盛(たいらのきよもり)〇と源義朝(みなもとのよしとも)●の戦い「平治の乱」(1159)。和漢混交文で書かれている。
「平家物語」(へいけものがたり)~1240?。信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)?琵琶法師によって語り継がれてきた。「力強い和漢混交文」と「優雅な七五調」(祇園精舎の 鐘の音 ぎおんしょうじゃの かねのおと)で書かれた歴史物語の傑作中の傑作。
「太平記」(たいへいき)1370年~。作者不詳。後醍醐天皇即位から2代将軍足利義詮(よしあきら)が亡くなるの南北朝の争乱までを描かれる。後醍醐天皇に対しては否定的に書かれている。
「曽我物語」(そがのものがたり)1400年頃。作者不詳。1193年曽我兄弟が父の仇(源頼朝の御家人)を討ち取った話が元ネタ。軍記物の中では出題される率が高いと思われる(過去問を解くときに見かけることが多い)。近世の江戸時代に、赤穂浪士の討ち入りを元にした人形浄瑠璃・歌舞伎「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」とともに人気となる。
「義経記」(ぎけいき)1400年頃。作者不詳。江戸時代の歌舞伎「勧進帳」(かんじんちょう)の元ネタになる。現在まで伝わっている源義経(みなもとのよしつね 源頼朝の弟)のイメージは、「義経記」が土台になっている。
10.「紀行文」
『十六夜の月がきれいな夜に、京都から東の関所を抜けて海の道を鎌倉に向けて旅をする』
十六夜の月がきれいな夜に、京都から東の関所を抜けて海の道を鎌倉に向けて旅をする
「十六夜」十六夜日記(いざよいにっき)1280年。作者は阿仏尼(あぶつに 女性)。荘園の訴訟のため60歳という高齢で京都から鎌倉へ行く。途中の「歌枕」や「景勝地(けいしょうち 風景がきれいな所)」の感想を書いたり和歌を詠んだりしている。鎌倉での訴訟が決済する前に阿仏尼は亡くなったので、そこで日記は終わってしまう。アグレッシブで子どもへの愛が強い性格がうかがえる。日記が始まったのが16日からなので「十六夜日記」(いざよいにっき)と後世の人が名付けた。
「東の関所」東関紀行(とうかんきこう)1242年。作者不詳。京都から鎌倉まで紀行文(旅行日記)。和漢混交文で風景描写がすばらしく、松尾芭蕉に影響を与えたとされる。「東関紀行」の漢字「紀」に注意。
「海の道」海道記(かいどうき)1223年。作者不詳。京都から鎌倉まで行って、長野の善光寺(ぜんこうじ)に寄ってから京都まで帰ってくるまでの旅行日記。「伊勢物語」の「ある男(在原業平)」と同じ道をたどっていき、「ある男」が見た「歌枕」や「景勝地」についての感想をつづった旅行日記。「海道記」の漢字「記」に注意。
紀行文とは
鎌倉時代になると「京都~鎌倉の街道」が整備され、人や物の行き来が盛んになった。平安期と異なり東海地方を安全に旅行できるようになったため、旅行日記である「紀行文」が作られた。「十六夜日記」「東関紀行」「海道記」を中世三代紀行文と呼ぶ。
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前回:まだ作ってません。
次回:未定
以上で、第13回「エピソードとゴロで覚える古文文学史識別」は終わりです。
ご精読ありがとうございました。
今回取り扱った文学史は、直接得点につながる重要です。しかし、もっと大事なことは「文学史の知識があれば、読解にものすごく役に立つこと」です。ある程度「話の概要」をつかんでおけば、初見の文章でも大きな読み違えはしなくなります。エピソードを使ったゴロ合わせの練習を繰り返していくと、かなり忘れにくくなります。
次回の予定はまだ未定です。よろしければ、次回も読んでいただけるとありがたいです。